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映画 『TAKESHIS'』

 久しぶりに映画館に行って、北野武監督の『TAKESHIS'』を観ました。まあ小説でも映画でもそうなんだけれど、パッと1回観た(読んだ)だけで好き嫌いを判断できるほどに僕の頭のできはよくないので、今の時点であれこれいうのは難しいけれども、きっとこの映画は僕の気に入るんじゃないかなぁと(観終わった)今は思っています。

 

 きっとこの映画はみんなあれこれ考えて、論理的帰結というか、理論的解決というか、構造の解析というか、とにかくこの映画から理性的に何かを読み取ろうとするんだろうけれども、どうやら僕にはそれは無理そうです。僕は人の言動からその人の頭の中をいちいち解析するような趣味はないので、この映画もやっぱりなんだかよくわからないけれども凄い事、面白いことを考えるというか思っている人がいるんだなぁという程度でおしまいです。

 

 ストーリーはそんなに複雑じゃないです(というか単純です)。噂が先行して「どうやら難しい映画らしいぞ」という先入観が出来上がりつつありますが、そんなに肩肘張らずに観ていればそれなりにすっと映画の世界に入り込めます。天才科学者が人の頭の中を覗き見る装置を発明して、誰か他人の頭の中に入り込むことができるとすれば、きっとこの映画を観るような奇妙な体験になるんだろうなぁと思います。

 

 人の頭の中(妄想)は時間軸も論理性も倫理観も飛び越えたカオスみたいなものなので、あまり深く理由を求めないほうが得策ではないかなぁと思います。そういう面倒な役割は専門家に任せて、僕らは考えるんじゃなくて、体験する側に廻った方が良いですよ、きっと。コンピュータの仕組みを考えるのが一部の専門家であるのと同じように、映画の仕組みを考えるのは映画評論家に任せましょう。

 

 とにかく、この映画を「ある一人の男の妄想」として捕らえるのならば、やっぱり僕の妄想や想像とはレベルが違います。なんというか凡人には妄想し得ない領域の、芸術家(=変人)にしか見えない妄想の世界のようです。その芸術家の(頭の中の)世界を垣間見ることができるだけでも楽しいものです。

 

 『TAKESHIS'』 (北野武監督:2005年)

 

「飛行機で眠るのは難しい」 小川洋子 (『まぶた』より)

 少し前に『博士の愛した数式』が大ベストセラーになった小川洋子さんですが、僕はどちらかというとこの人の短編小説の方が好きでこの短編集『まぶた』なんかは なかなか読み飽きずにときどき読み返したりして安らかな気持ちになったりします。どれも面白いのでべつにどれを選んでも良かったんだけど、なんとなく「飛行機で眠るのは難しい」を選んで読んでみました。

 

 男と女が機内で隣り合わせになって、男が女に話しかけるところから物語が始まるのですが、その第一声が「飛行機で眠るのは難しい。そう思いませんか? お嬢さん」ということです。男は女に飛行機で眠るコツを教えます。

   


「とにかく目を閉じることです。暗闇の中に閉じこもるんです」(略)「そしてその暗闇に、、眠りへ導いてくれる物語を映し出すんです」(略)「誰でもその人固有の、眠りの物語を持っているはずです。怯えないで、緊張しないで、さあどうぞ、と言いながら眠りの世界へ導いてくれる、案内役をね」
  

 

ここから彼の眠りの物語についての語りが始まります。15年ほど前に彼が乗り合わせた飛行機で、隣席の人が永遠の眠りにつく瞬間を看取ったという体験談を静かなトーンで語るんだけれども、その内容がとてもやさしくてあたたかい話でありながらもどこか冷たくて暗い話でもあって、静かな話なんだけれどどこか騒々しい感じがして、といったちょっと不思議な感じのするお話です。

 この短編集のお話はどれも、あったかいんだけどどこか冷たい感じがしたり、やさしいんだけど厳しい感じがしたり、明るいんだけれどもどこか暗かったりする、ある意味ではとても現実的な物語で、読んでいてとても心地よくなりました。

   

   小川洋子 『まぶた』 (2004年:新潮社文庫)

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』

 『春琴抄』からの失明つながりということで、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を観ました。僕はこの映画がすごく好きなのですが、なぜか僕の周りにはこの映画が嫌いな人が多いようです。たくさんのテーマがそれぞれ重過ぎて、痛々しくて、辛過ぎるから、(あとミュージカルも?)どうも苦手だということです。でも、今回はじっくり観たのですがどうやら僕はやっぱりこの映画が好きみたいです。

 

 一人息子を抱えるシングルマザーのセルマは、先天的(遺伝的)な目の病を患っており、光を失いつつあります。そのほとんど視力のない状態にも関わらず、彼女は工場で長時間の労働に勤しみ、さらに内職までも行っております。というのも、それは同じ病が遺伝した一人息子の手術費用を貯めるためです。でも、ある日遂にセルマは完全に視力を失ってしまい、工場を解雇されてしまいます。その日、(彼女に思いを寄せる)ジェフに連れられて家に帰る途中の線路でのエピソードです。

    

ジェフ:「目が(もう全く)見えないのか?」

セルマ:「(この世界にまだ)見るべきものがある?」


 僕は見栄張りな人はあまり好きではありませんが、強がりの人がとても好きで、このセルマの強がりには思わず泣いてしまいそうになりました。彼女は辛い時苦しい時に、空想の世界に没入し、そこで彼女なりのミュージカルを演じます。この時のミュージカルの曲名が「I've seen it all(私はもう全部見てしまった)」です。

  

 緑の木々も見た、人が死んでいくのも見た、自分の過去も見たし未来も分ってる、何もかも見てしまった今ではもう見るものはなにもない、というふうに目が見えないことを正当化(合理化)するようなことをセルマは延々と(彼女の空想の)ミュージカルで歌い続けます。セルマ(ビョーク)の歌声がとても切ないし、その歌詞ににじみ出る「強がり」は本当にうるっときます。

 

 その後の彼女が辿る運命はかなり凄惨な事柄の連続です。セルマはほぼ完全に「神に見捨てられた善人」で、だからこそ彼女の一つひとつの強がりと、それが脆く崩れ去る瞬間は息を呑み、心が痛み、涙が流れます。『春琴抄』の佐助の愛の重さとそれに伴う自己犠牲も相当なものですが、セルマのそれもかなりリアルに痛いです。

    

 映画を見終わると、さてこの映画にはいったい「救い」というものがあるのかなぁ、と考えさせられます。

  

 『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(ラース・フォン・トリアー監督 2000年 デンマーク)

 

小説 『世界の中心で愛を叫ぶ』 (片山恭一)

  前々回の映画に引き続き、今度は原作の『世界の中心で愛を叫ぶ』について。

        

 恋人のアキの病名が白血病で治療期間が最低二年はかかると知った朔太郎は、夜に眠りにつく前にひそかに祈ることが習慣になって、アキが元気になるなら自分が身代わりになってもいいから・・・と神様(らしきもの)と取引しようとします。

                    

毎晩そんなことを考えたり、祈ったりしながら眠るのに、朝起きてみると、ぼくはあいかわらず元気で、病気で苦しんでいるのはアキの方だった。彼女の苦しみは、ぼくの苦しみではなかった。ぼくも苦しんではいたが、それはアキの苦しみを自分なりに苦しんでみることでしかなかった。ぼくはアキではなかったし、彼女の苦しみでもなかった。

      

 なんと言いますか、この4文の中に「苦しみ(苦しんで)」という言葉が7回も出てきます。まあ文章の質どうこうは抜きにしても、どうもうるさくてしつこくて押しつけがましい感じがする。朔太郎はなんとなく「自分の恋人が病で苦しんでいるときは、普通は彼氏として苦しむべきなんじゃないか」って いうふうに、頭の中で思い込もうとしているように感じます。だから「苦しい」じゃなくて、「苦しんでみる」なんじゃないかなぁ。 

             

 彼は毎晩しっかり眠って毎朝ちゃんとご飯を食べているんです。学校に行って、見舞に行って、家に帰って、神様にお願いして、そして眠る。実際に自分の身を削る行動はなに一つしていないんです。お百度参りにも祈願にもお守りを買いにも行かないし、断食も断眠もアルバイトも激しい運動もしないし、彼女のための花摘みも手作りのプレゼント作りもなにもしない。千羽鶴も照る照る坊主(?)すら作らない。ましてや(前回の )佐助のように目を針で刺すなんてことはできるはずもなく、ただ頭の中で考えているだけ。(彼女は薬の副作用のせいで坊主にしたんだから、せめて朔太郎もおそろいで坊主にしたらいいのに・・・)

          

 自分は身を切るような犠牲を何も払わずに、「ぼくを身代わりに」って神様にお願いするのはどうかな? 結局彼がやったことといえば、{①病気を辞典で調べる ②代わってあげたいと祈る ③(おじいちゃんに金を借りて)オーストラリア旅行のチケットを取る ④(小遣いかなにかで)アキの誕生日のケーキを買う ⑤「誰か助けてください」と叫ぶ}くらいのものです。日雇いのアルバイトでもしたらケーキくらい自分の働いた金で買えるし、アキの生涯最後の誕生日プレゼントも買えたのに。

  

 アキの最期を迎える前に「ぼくもすぐに(あの世へ)行くから」って彼女に言うんですけど、この言葉は「君はもうダメなんだよ」って言っているようなものですよね。年末に彼女が亡くなって正月を迎えるんだけど、やっぱりご飯を食べて(ぼんやりと見るともなく)テレビを見ているんです。となるとやっぱりこれは「純愛小説」ではないんじゃないかな? どっちかっていうと「青春小説」のような。理想と現実の間の激しくて厳しい葛藤ですよね。

  

 「オレはアキを愛してる。そのアキが病気で苦しんでいる。なのにオレはなんで苦しくないんだろう、悲しくないんだろう。なんで眠れるんだろう、ご飯が喉を通るんだろう。愛していないのかな? でもそんなはずはない。オレは悲しいんだ、苦しいんだ・・・・苦しいはずだ」みたいな感じで、分裂ぎみの高校生。だったら上の引用文もかなり魅力的な文章に思えてくるかも・・・。


(ちなみに朔太郎はアキの名前を「亜紀」ではなく「秋」と思い込んでいたそうです・・・ おい、ちょっとそれは・・・・)

 

 片山恭一 『世界の中心で愛を叫ぶ』 (2001年:小学館)

「盲目の愛?』

 谷崎潤一郎の代表作の『春琴抄』はお嬢様育ちで音楽的才能溢れる、我侭気侭でややサディスティックな盲目の美女(=春琴)とその奉公人でもあり弟子でもある佐助との一生涯の恋愛物語です。

                                
 37歳になった春琴は、(おそらくは)弟子の一人に逆恨みされて、就寝中に顔に熱湯を浴びせられ、自慢の美貌が焼けただれ見るも無残な姿になってしまいます。盲目ながらも美意識とプライドの高い彼女はその顔を他人に見せることを厭い、30年近く彼女に仕えていた佐助にさえ顔を見ないように、と命じます。

 その憐れな春琴の様子に触れた佐助は、早朝に縫い針を取り出して鏡の前に座り、自らの両目に突き刺して光を失います。そして春琴に、目の病気にかかって視力を失った、と告げます。それを聞いた春琴は「ほんとうか」と訊ねて長く黙り込みます。そのときの佐助の描写です。


            

                            

佐助は今こそ外界の眼を失った代りに内界の眼が開けたのを知り嗚呼此れが本当にお師匠様の住んでいらっしゃる世界なのだ此れで漸うお師匠様と同じ世界に住むことが出来たと思った

       

   

 二人の関係はいわゆる「純愛」ではないかもしれませんが、どうやら「本物の愛」であることにはかわりないようです。(しかも実話ベースのようで・・・。) 春琴は佐助のこの知らせを聞いて一瞬喜んだような素振りを見せますが、それはこのときになってやっと引け目なく素直に本心から佐助を愛せるようになったからで、一方の佐助も視力を失うことによってはじめて何の迷いもなく混じりけもなく純粋に春琴を愛せるようになったんじゃないかと思います。

 その後の二人の関係に劇的な変化はないものの、とても穏やかな深い愛情に包まれた視覚のない感覚的な生活が続くので、なにやら異次元に放り込まれたようなゆらゆらした感じがします。それがとても気持がいい。

                  

 現代の日本の作家たちではなかなか届かない美の極致のような場所のお話をたった70ページそこそこで描いてしまうのですから、なんともありがたいことだなぁと思いました。

         

 谷崎潤一郎 『春琴抄』 (1951年:新潮文庫)

映画 「世界の中心で愛を叫ぶ」

 昨晩は阪神タイガースの優勝を横目に、TBSで放送された映画「世界の中心で愛を叫ぶ」を観ました。原作がどうも僕の肌に合わなかったので、期待せずにというか諦め半分の気持で観たのですが、しっかりと最後まで楽しむことができました。というよりも全く別の物語に生まれ変わっていましたよね? キレイさっぱりリフォームされていて面白かったです。

                   

 片山恭一さんが建てた立派な建物を行定監督が一度スクラップして、使える材料は再利用しながら同じ土地に、全く違う建物を建てたみたいです。原作でなんとなく厭だなぁ感じた箇所がひとつひとつ丁寧に作り直されて、映画の中ではその違和感がほとんど見当たらなくなっていました。土台や骨組みから作り変えて、いろいろなエピソードも細かく創って、しっかりと全体の統一性もでて、更には登場人物のキャラクターまで完全に作り変えて、そのこだわりぶりというか原作の崩しっぷりにホントに感心しました。

            

 でも、原作ファンの方々や作者本人はあの映画を観てどう思ったのかなぁ? (きっと興行的な問題で)余計な登場人物も出てきたし、無理やりまとまりすぎている感じもするし、主人公のキャラクター(性格)まで変えられて同じ題名をつけられたら、あんまりいい気がしないんじゃないかなぁ。

            

 阪神タイガースも今年しっかりとリフォームして優勝しましたが、ウォークマンのエピソードは阪神の藤川投手みたいに大変身を遂げて、驚くくらいに大活躍しましたね。小説を読んで映画を観ていない人は一度観てみると本当に楽しめると思います。原作小説の世界も広がるし、脚本を書いた行定監督・坂元裕二さん・伊藤ちひろさんのこだわりが透けて見えて、ちょっと作品づくりの秘密を垣間見た気がします。

   

"ICE MAN"と「氷男」(村上春樹)

村上 春樹
レキシントンの幽霊

  

 僕はときどき、アメリカの小説をオリジナルで読みたくなることがあるが、残念なことに、僕の英文読解能力は中高生レベルであり、したがって、日本語でそれを読むのと比べると5倍近くの時間がかかる。だが、不思議なことに、日本語で読むよりも英語で読むほうが細部の描写までしっかりと知覚でき、また長く記憶に留まることが多い。その理由は、僕の不器用な読み方によるものか、それとも英語の性質上のもの、(例えば独特のリズムや抑揚など)によるものなのかははっきりしない。(英文直訳風に・・・)

  

 そこで、今回、村上春樹の「氷男」を、Richard L. Petersonによって翻訳された"ICE MAN"で読んでみた。とても両方を比較するととても興味深かった。
       

 氷男という(普通の人間と比べると)ひんやりとした奇妙な人間(?)と愛し合うことになったある女性の物語です。スキー場のラウンジで氷男と出会い、話をするうちに懇意な関係になっていきます。氷男には過去の記憶がありません。家族がいるのかどうか、自分の年齢はいくつなのか、それさえもわかりません。二人は結婚しようと決めますが、彼女の家族からは大反対されます。「イエ(家)―イエ」の関係すら結べないからです。でも二人はその困難を振り切って、新たな生活に踏み出します。その一歩手前の箇所です。
      

英語訳

The ice man loved me just as I was―― in the present, without any future. In turn, I loved the ice man just as he was―― in the present, without any past. We even started to talk about getting married.

    

(氷男はどんな未来も関係なく、ただこの今の私を愛してくれた。同様に私はどんな過去も関係なく、ただこの今の氷男を愛した。私たちは結婚について話しあうようにさえなった。)
         

  

原文

<氷男は過去もなく未来もなく、ただこの今の私を愛してくれた。そして私も過去も未来もないただこの今の氷男を愛した。それは本当に素晴らしいことに思えた。そして私たちは結婚について話しあうようにさえなった。>
  



 英語の方は「氷男の過去なんか全く気にしない」「女の未来なんか全く気にしない」になっています。原文(日本版)では両方とも「未来も過去も全く気にしない」になっています。後ろの一文(「それは本当に~」)もアメリカ・バージョンではなくなっています。リチャードさんが英語に合うようにわざと意訳(異訳?)したのか、それとも村上さんがアメリカ用に後々手を入れたのか、それとも僕の読み違い(without 〈our〉 any・・・・)なのかはわかりませんが。

  

 この箇所だけ読むと、アメリカ・バージョンの方がかっこいいですね。

「男の過去は気にしない。女の未来は気にしない。ただ今現在の相手だけが問題だ・・・」って。しんみりします。しかも双方に強い決心と覚悟を感じます。

           
 でも、やっぱり全体を読むと原文の方がしっくりくる、というか原文じゃないと内容がチグハグになってしまうんです。やっぱりこの場面は、「お互いに過去も未来も捨てて今のこの瞬間の自分たちを取る」なんです。だからその瞬間は「本当に素晴らしいことに思え」るんですよね。この言葉が後々重く響いてきます。

  

 それにしても、見事な翻訳です。必死に背伸びしても高校生レベルの英文読解力しかない僕でも、単語の意味さえわかれば、すらすら読めるくらいの平易で簡潔な英語です。しかも単語もそんなに難しくないし・・・。しかも、なぜか英語で読むと、この物語のひんやり感がひしひしと伝わってきます。そしてその後パラパラとオリジナルを流し読みしてみるだけで、不思議なことにこの世界がグイグイ迫ってくるように感じます。これはきっと普段の僕がどれだけ独りよがりに読んだつもりになっているかってことの表れだと思います。


 村上春樹 「氷男」 (『レキシントンの幽霊』より、1996年:文芸春秋社)

善悪は存在しない??

 マンガでも何でも揃え始めてしまうと、興味が薄れてきても、飽きてしまっても、なぜか途中で止められなくなったりします。僕にとっては、「ハリー・ポッター」のシリーズがそれで、今までの5作(7巻)が本棚の奥にずらっと揃っています。

               

 六年前の冬、「世界的ベストセラー」の帯にひきつけられて読んだ『ハリー・ポッターと賢者の石』は、最初に読んだ時(梨木香歩さんの物語なんかに比べると)少し物足りなく感じたのですが、日本でもあっという間に大ベストセラーになり、重版重版で気がつけば500回くらい刷りなおしているようです。となると、貴重な初版初刷り本を買った僕としてもなんとなくブームに巻き込まれざるを得なくなって、その後もあれよあれよといううちに、第5作まで買い続けたわけです。

          

 それを今回まとめて読み返してみると(ひと月くらいかかった)、3作目以降は世界中の子供たちの期待が作者に重く圧し掛かり、動物も魔法も建物も行事も法律もディテールまでとことん、それこそ実際にその世界があると思えるくらいに、細かく細かく作り上げているので、反対にストーリーを追いかけにくくなり、(僕の性格上)読み辛くて困った。

 一方、2作目まで(『~賢者の石』と『~秘密の部屋』)は、最初の物足りなさが3作目以降に出てくる無尽のディテールがしっかり支え直して、すっかり見違えました。うん、面白かった。

               

 『ハリー・ポッターと賢者の石』から・・・・。教師のクィレルはハリーの先生であり、悪の枢軸ヴォルテモードの部下です。ハリーはその事実を突き止めます。その場面のクィレルの言葉です。

                    

「ヴォルデモード卿は私がいかに誤っているかを教えて下さった。善と悪とが存在するのではなく、力と、力を求めるには弱すぎる者とが存在するだけなのだと・・・・・・」

 で、ちょうど『マトリックス リローデッド』をDVDで観ていて思うところがあったので・・・・(話の筋の説明はちょっと面倒なので省略)

               

A(メロビンジアン): 物事とはそういうものだ。ただひとつ変わらないもの、普遍的なものが存在する。唯一絶対の真実がね。因果関係。作用―反作用、原因―結果

B(モーフィアス): あらゆるものは選択から始まる

A: いいや、違う。選択というものは、力をもつ者と持たざる者との間で創り上げられた幻想だよ

     

 まあ簡単に云うと、この世(マトリックスの世界)は、「力ある者(=因果関係を理解する者)」と「それ以外の者」がいて、そのふたつをつなぐのは科学的(数学的)因果関係だ。その因果関係は絶対的で、永久不変の真実だ。つまり、普段ぼくらが「選択」だと考えているものは、力をもつ者が(僕らの知らない)裏側でひそかに僕らに命令を出していて、その表向きの幻影に衝き動かされながら、彼らの命令に従っているに過ぎない、ということです。(全然簡単じゃないし・・・)

                                       

 このテーマはかなり複雑なんだけれど、物事の因果を理解しそれを力に変えて、善悪を超えた超法規的な権限を手に入れる者がいる(ヴォルデモードやメロビンジアン等<プログラム>)。その超人は、それ以外の者(民衆)の自由を奪う。(『マトリックス』では、その自由と引き換えに、僕たち民衆は、おいしいものを自由に食べ、自分の欲望に素直に生き、自分の意思で選択しているという、偽モノの実感を得ることができる、ということです。『ハリー・ポッター』はそこまで入り組んではいない・・・)

 

 そこで、本当の意味での自由を得るために、その超人的な者と闘うのがハリー・ポッターであり、救世主ネオです。さて、この唯一無二の真実と言われるものは、果たして本当に真実なのか? もしそうでないなら、何がその(因果という絶対の真実で塗り固められた)壁を壊すことができるのか、ということです。 

    

 そして・・・、この絶対の真実は壊れる方向に進みます。(当然だけど・・・。)では、その「善悪を超えた力(因果関係)」よりも強い「永久不変で絶対的な真実の力」は一体何でしょう? それは・・・やはり、あの力みたいです。

 J.K.ローリング著・松岡祐子訳 『ハリー・ポッターと賢者の石』(1999年:静山社)

『東京奇譚集』 (村上春樹)

 日向を歩けば暑く、喫茶店に入れば寒い。この街(トウキョウ)はなんともバランスの悪いところだなぁ、と思いつつ、買ったばかりの村上春樹著 『東京奇譚集』を読みました。5つの短編が収められているのですが、トータルとしてとても楽しい短編集です。コンセプト・アルバムみたいになっています。だから一つひとつをバラバラに読むんじゃなくて、頭から順番に一気に読むとかなり面白い。(僕は今日の移動時間をすべてこの小説に奪われました。そしてすっかり騙されました・・・)

                

         

「(略)しかし階段は何よりも大事だというのが夫の考え方でした。階段というのは建物の背骨のようなものだと」(「どこであれそれが見つかりそうな場所で」より)

   

  

 5つの短編を一つひとつ、それこそ慎重にゆっくり階段を降りるように、読んでいったのですが、慎重に読んだからこそ(?)、すっぽり引っかかってしまいました。「品川猿」を読み終えたときには、階段の最後の一段を踏み外したような感じになりました。   

                       

 キーワードは「奇譚」です。とはいっても、現実(だと僕らが日ごろ考えているもの)と非現実の境界線上を、(非現実の方に流れていかずに、)グッとキープしながら話が進みます。その抑え方があまりに絶妙で、さすが作家さんだなぁと感心します。

        

 どれも、等しく面白いのですが、特に4つ目の「日々移動する腎臓のかたちをした石」は、――僕は「蜂蜜パイ」(『神の子どもたちはみな踊る』 )がとても好きなので――順平の再登場に心踊りました。でも一番心に残ったのは「品川猿」かな、やっぱり。

              

 といろいろ言いかけたところで、これから読む人の楽しみを削いでしまってはいけないので、ここで止めておきます。

                      

                 

 村上春樹 『東京奇譚集』(2005年9月:新潮社)   

「自分で決める」

梨木 香歩
西の魔女が死んだ

 日本の未来を占う総選挙が終わりました。連立与党が2/3以上の議席を獲得するという信じられない結果になりました。僕の投じた票は見事に消えてしまいましたが、あらためて小選挙区制の恐ろしさと小泉さんのカリスマ性を知ることになりました。

                                

 いい機会なので、前回から引き続き梨木香歩さんの『西の魔女が死んだ』の言葉を引いてみようと思います。

              

 中学生のまいは喘息もちで、感受性が強く、学校に馴染めず、家でもなんとなく居場所が見つかりません。登校拒否になったまいは、しばらくおばあちゃんの家で療養することになります。おばあちゃんは先祖代々の魔女です。まいはそこで魔女になる訓練を受けるようになります。どうやら魔女になるための必須条件とは、「自分で決める」ことに尽きるらしい。

 ある晩、おばあちゃんはまいに、自分の大事にしているマグカップを具体的に思い描くように、と言います。ところがなかなかうまくいきません。夢と現の境をしっかりと捉えて想像するように、と教えられます。

 

「(略)それができるようになったら、今、現実には見えないもの、例えばこの箱の中身だとかそういうものを見たいと思い、実際に見えるようにするんです。そうなるまでにはかなり時間がかかりますけどね。でも、気をつけなさい。いちばん大事なことは自分で見ようとしたり、聞こうとする意思の力ですよ。自分で見ようともしないのに何かが見えたり、聞こえたりするのはとても危険ですし、不快なことですし、一流の魔女にあるまじきことです」

 僕は今回の選挙で、「自分で見ようともしないのに何かが見えたり、聞こえたり」した人がたくさんいたんじゃないかなぁと思います。「国民各人が自分の意思で、しっかりとその『箱の中身』を見たいと思い、そして実際に見えていた」とは思えないんです。

          

 それぞれ個性をもった人間があれだけ集中的に一つの政党(というよりも一人の人間)の政策にほれ込むとはどうしても思えない。別に各党のマニフェストを深く掘り下げて比較検討して投票しろ、とまでは思わないですが、少なくとも小泉さんの主張の「箱の中身を意識して捉えて、想像すること」は必要だったんじゃないかと思います。

        

           

 ナチスのヒトラーが戦時宣伝についてこんなことを言っています。

 「大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわりに忘却力は大きい。この事実からすべて効果的な宣伝は、重点をうんと制限して、そしてこれをスローガンのように利用し、そのことばによって、目的としたものが最後の一人にまで思いうかべることができるように継続的に行」うべきだと。(『わが闘争(上)』アドルフ・ヒトラー著 1973年 角川文庫)

 
 小泉さんがヒトラーのような独裁者だとか、軍国主義者だとか言っているわけではありません。ただ、小泉さんは僕たち国民一人一人のなかに潜んでいる不安や焦燥、倦怠感や無力感やもっといえば絶望感のようなものを、さっと掬い取る
コツみたいなものを(先天的に)知っている人で、僕たちはほとんど無批判に(梨木さんのいう)自分の「裏庭」に小泉さんを立ち入らせているんじゃないか、と思うんです

  

 僕は以前にも言いましたが、今回は自民党を(小泉さんを)応援していました。だけど、マス・メディアに出てくる小泉さんはどうしてもうさんくさい。対立候補の立て方もマニフェストの内容も、どれも空疎で無意味なものに感じてしまう。20年後のこの国の姿を思い浮かべられないし、住みよい社会の気配もなぜか感じられない。なのに・・・、箱の蓋を開けてみれば、前代未聞、空前絶後の結果で、自民党の圧勝に終わりました。(ちなみに僕は迷いながらも、比例区は自民党に入れなかった)

     

 僕は、小泉さんは正しいことをしてくれる、と信じています。でも、もし今後の政治家で小泉さんのようにカリスマ性があって、相好にも優れた人がでてきて、その人がとことん(うまく)悪政を行い、戦争へつき走るような人であったときに、果たしてこの国の国民は「NO」と言えるのか、とても疑問に思います。そして「自分で決める」ということは「自分で責任を負う」ということですが、与党に2/3も議席を与えてしまった僕たちは、ほんとうに責任を負えるのだろうかと怖くもあります。

 

 やっぱり、「自分で見ようともしないのに何かが見えたり、聞こえたりするのはとても危険ですし、不快なこと」だと思います。



 梨木香歩 『西の魔女が死んだ』(小学館:1996年)
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