善悪は存在しない?? | coffee house  

善悪は存在しない??

 マンガでも何でも揃え始めてしまうと、興味が薄れてきても、飽きてしまっても、なぜか途中で止められなくなったりします。僕にとっては、「ハリー・ポッター」のシリーズがそれで、今までの5作(7巻)が本棚の奥にずらっと揃っています。

               

 六年前の冬、「世界的ベストセラー」の帯にひきつけられて読んだ『ハリー・ポッターと賢者の石』は、最初に読んだ時(梨木香歩さんの物語なんかに比べると)少し物足りなく感じたのですが、日本でもあっという間に大ベストセラーになり、重版重版で気がつけば500回くらい刷りなおしているようです。となると、貴重な初版初刷り本を買った僕としてもなんとなくブームに巻き込まれざるを得なくなって、その後もあれよあれよといううちに、第5作まで買い続けたわけです。

          

 それを今回まとめて読み返してみると(ひと月くらいかかった)、3作目以降は世界中の子供たちの期待が作者に重く圧し掛かり、動物も魔法も建物も行事も法律もディテールまでとことん、それこそ実際にその世界があると思えるくらいに、細かく細かく作り上げているので、反対にストーリーを追いかけにくくなり、(僕の性格上)読み辛くて困った。

 一方、2作目まで(『~賢者の石』と『~秘密の部屋』)は、最初の物足りなさが3作目以降に出てくる無尽のディテールがしっかり支え直して、すっかり見違えました。うん、面白かった。

               

 『ハリー・ポッターと賢者の石』から・・・・。教師のクィレルはハリーの先生であり、悪の枢軸ヴォルテモードの部下です。ハリーはその事実を突き止めます。その場面のクィレルの言葉です。

                    

「ヴォルデモード卿は私がいかに誤っているかを教えて下さった。善と悪とが存在するのではなく、力と、力を求めるには弱すぎる者とが存在するだけなのだと・・・・・・」

 で、ちょうど『マトリックス リローデッド』をDVDで観ていて思うところがあったので・・・・(話の筋の説明はちょっと面倒なので省略)

               

A(メロビンジアン): 物事とはそういうものだ。ただひとつ変わらないもの、普遍的なものが存在する。唯一絶対の真実がね。因果関係。作用―反作用、原因―結果

B(モーフィアス): あらゆるものは選択から始まる

A: いいや、違う。選択というものは、力をもつ者と持たざる者との間で創り上げられた幻想だよ

     

 まあ簡単に云うと、この世(マトリックスの世界)は、「力ある者(=因果関係を理解する者)」と「それ以外の者」がいて、そのふたつをつなぐのは科学的(数学的)因果関係だ。その因果関係は絶対的で、永久不変の真実だ。つまり、普段ぼくらが「選択」だと考えているものは、力をもつ者が(僕らの知らない)裏側でひそかに僕らに命令を出していて、その表向きの幻影に衝き動かされながら、彼らの命令に従っているに過ぎない、ということです。(全然簡単じゃないし・・・)

                                       

 このテーマはかなり複雑なんだけれど、物事の因果を理解しそれを力に変えて、善悪を超えた超法規的な権限を手に入れる者がいる(ヴォルデモードやメロビンジアン等<プログラム>)。その超人は、それ以外の者(民衆)の自由を奪う。(『マトリックス』では、その自由と引き換えに、僕たち民衆は、おいしいものを自由に食べ、自分の欲望に素直に生き、自分の意思で選択しているという、偽モノの実感を得ることができる、ということです。『ハリー・ポッター』はそこまで入り組んではいない・・・)

 

 そこで、本当の意味での自由を得るために、その超人的な者と闘うのがハリー・ポッターであり、救世主ネオです。さて、この唯一無二の真実と言われるものは、果たして本当に真実なのか? もしそうでないなら、何がその(因果という絶対の真実で塗り固められた)壁を壊すことができるのか、ということです。 

    

 そして・・・、この絶対の真実は壊れる方向に進みます。(当然だけど・・・。)では、その「善悪を超えた力(因果関係)」よりも強い「永久不変で絶対的な真実の力」は一体何でしょう? それは・・・やはり、あの力みたいです。

 J.K.ローリング著・松岡祐子訳 『ハリー・ポッターと賢者の石』(1999年:静山社)