"ICE MAN"と「氷男」(村上春樹) | coffee house  

"ICE MAN"と「氷男」(村上春樹)

村上 春樹
レキシントンの幽霊

  

 僕はときどき、アメリカの小説をオリジナルで読みたくなることがあるが、残念なことに、僕の英文読解能力は中高生レベルであり、したがって、日本語でそれを読むのと比べると5倍近くの時間がかかる。だが、不思議なことに、日本語で読むよりも英語で読むほうが細部の描写までしっかりと知覚でき、また長く記憶に留まることが多い。その理由は、僕の不器用な読み方によるものか、それとも英語の性質上のもの、(例えば独特のリズムや抑揚など)によるものなのかははっきりしない。(英文直訳風に・・・)

  

 そこで、今回、村上春樹の「氷男」を、Richard L. Petersonによって翻訳された"ICE MAN"で読んでみた。とても両方を比較するととても興味深かった。
       

 氷男という(普通の人間と比べると)ひんやりとした奇妙な人間(?)と愛し合うことになったある女性の物語です。スキー場のラウンジで氷男と出会い、話をするうちに懇意な関係になっていきます。氷男には過去の記憶がありません。家族がいるのかどうか、自分の年齢はいくつなのか、それさえもわかりません。二人は結婚しようと決めますが、彼女の家族からは大反対されます。「イエ(家)―イエ」の関係すら結べないからです。でも二人はその困難を振り切って、新たな生活に踏み出します。その一歩手前の箇所です。
      

英語訳

The ice man loved me just as I was―― in the present, without any future. In turn, I loved the ice man just as he was―― in the present, without any past. We even started to talk about getting married.

    

(氷男はどんな未来も関係なく、ただこの今の私を愛してくれた。同様に私はどんな過去も関係なく、ただこの今の氷男を愛した。私たちは結婚について話しあうようにさえなった。)
         

  

原文

<氷男は過去もなく未来もなく、ただこの今の私を愛してくれた。そして私も過去も未来もないただこの今の氷男を愛した。それは本当に素晴らしいことに思えた。そして私たちは結婚について話しあうようにさえなった。>
  



 英語の方は「氷男の過去なんか全く気にしない」「女の未来なんか全く気にしない」になっています。原文(日本版)では両方とも「未来も過去も全く気にしない」になっています。後ろの一文(「それは本当に~」)もアメリカ・バージョンではなくなっています。リチャードさんが英語に合うようにわざと意訳(異訳?)したのか、それとも村上さんがアメリカ用に後々手を入れたのか、それとも僕の読み違い(without 〈our〉 any・・・・)なのかはわかりませんが。

  

 この箇所だけ読むと、アメリカ・バージョンの方がかっこいいですね。

「男の過去は気にしない。女の未来は気にしない。ただ今現在の相手だけが問題だ・・・」って。しんみりします。しかも双方に強い決心と覚悟を感じます。

           
 でも、やっぱり全体を読むと原文の方がしっくりくる、というか原文じゃないと内容がチグハグになってしまうんです。やっぱりこの場面は、「お互いに過去も未来も捨てて今のこの瞬間の自分たちを取る」なんです。だからその瞬間は「本当に素晴らしいことに思え」るんですよね。この言葉が後々重く響いてきます。

  

 それにしても、見事な翻訳です。必死に背伸びしても高校生レベルの英文読解力しかない僕でも、単語の意味さえわかれば、すらすら読めるくらいの平易で簡潔な英語です。しかも単語もそんなに難しくないし・・・。しかも、なぜか英語で読むと、この物語のひんやり感がひしひしと伝わってきます。そしてその後パラパラとオリジナルを流し読みしてみるだけで、不思議なことにこの世界がグイグイ迫ってくるように感じます。これはきっと普段の僕がどれだけ独りよがりに読んだつもりになっているかってことの表れだと思います。


 村上春樹 「氷男」 (『レキシントンの幽霊』より、1996年:文芸春秋社)