小説 『世界の中心で愛を叫ぶ』 (片山恭一) | coffee house  

小説 『世界の中心で愛を叫ぶ』 (片山恭一)

  前々回の映画に引き続き、今度は原作の『世界の中心で愛を叫ぶ』について。

        

 恋人のアキの病名が白血病で治療期間が最低二年はかかると知った朔太郎は、夜に眠りにつく前にひそかに祈ることが習慣になって、アキが元気になるなら自分が身代わりになってもいいから・・・と神様(らしきもの)と取引しようとします。

                    

毎晩そんなことを考えたり、祈ったりしながら眠るのに、朝起きてみると、ぼくはあいかわらず元気で、病気で苦しんでいるのはアキの方だった。彼女の苦しみは、ぼくの苦しみではなかった。ぼくも苦しんではいたが、それはアキの苦しみを自分なりに苦しんでみることでしかなかった。ぼくはアキではなかったし、彼女の苦しみでもなかった。

      

 なんと言いますか、この4文の中に「苦しみ(苦しんで)」という言葉が7回も出てきます。まあ文章の質どうこうは抜きにしても、どうもうるさくてしつこくて押しつけがましい感じがする。朔太郎はなんとなく「自分の恋人が病で苦しんでいるときは、普通は彼氏として苦しむべきなんじゃないか」って いうふうに、頭の中で思い込もうとしているように感じます。だから「苦しい」じゃなくて、「苦しんでみる」なんじゃないかなぁ。 

             

 彼は毎晩しっかり眠って毎朝ちゃんとご飯を食べているんです。学校に行って、見舞に行って、家に帰って、神様にお願いして、そして眠る。実際に自分の身を削る行動はなに一つしていないんです。お百度参りにも祈願にもお守りを買いにも行かないし、断食も断眠もアルバイトも激しい運動もしないし、彼女のための花摘みも手作りのプレゼント作りもなにもしない。千羽鶴も照る照る坊主(?)すら作らない。ましてや(前回の )佐助のように目を針で刺すなんてことはできるはずもなく、ただ頭の中で考えているだけ。(彼女は薬の副作用のせいで坊主にしたんだから、せめて朔太郎もおそろいで坊主にしたらいいのに・・・)

          

 自分は身を切るような犠牲を何も払わずに、「ぼくを身代わりに」って神様にお願いするのはどうかな? 結局彼がやったことといえば、{①病気を辞典で調べる ②代わってあげたいと祈る ③(おじいちゃんに金を借りて)オーストラリア旅行のチケットを取る ④(小遣いかなにかで)アキの誕生日のケーキを買う ⑤「誰か助けてください」と叫ぶ}くらいのものです。日雇いのアルバイトでもしたらケーキくらい自分の働いた金で買えるし、アキの生涯最後の誕生日プレゼントも買えたのに。

  

 アキの最期を迎える前に「ぼくもすぐに(あの世へ)行くから」って彼女に言うんですけど、この言葉は「君はもうダメなんだよ」って言っているようなものですよね。年末に彼女が亡くなって正月を迎えるんだけど、やっぱりご飯を食べて(ぼんやりと見るともなく)テレビを見ているんです。となるとやっぱりこれは「純愛小説」ではないんじゃないかな? どっちかっていうと「青春小説」のような。理想と現実の間の激しくて厳しい葛藤ですよね。

  

 「オレはアキを愛してる。そのアキが病気で苦しんでいる。なのにオレはなんで苦しくないんだろう、悲しくないんだろう。なんで眠れるんだろう、ご飯が喉を通るんだろう。愛していないのかな? でもそんなはずはない。オレは悲しいんだ、苦しいんだ・・・・苦しいはずだ」みたいな感じで、分裂ぎみの高校生。だったら上の引用文もかなり魅力的な文章に思えてくるかも・・・。


(ちなみに朔太郎はアキの名前を「亜紀」ではなく「秋」と思い込んでいたそうです・・・ おい、ちょっとそれは・・・・)

 

 片山恭一 『世界の中心で愛を叫ぶ』 (2001年:小学館)