coffee house   -2ページ目

「庭」とか「公園」の不思議な力

 秋が近づき、そろそろファンタジーの季節(??)ということで、梨木香歩さんの『沼地のある森を抜けて』 を買いながらも、『裏庭』、『西の魔女が死んだ』『エンジェル エンジェル エンジェル』 を読み返してみました。やっぱり面白い。『裏庭』なんかは何もかもが盛りだくさんです。『西の魔女~』、『エンジェル~』を全部ひっくるめて、話が縦横も表裏もごちゃまぜに行き来して、深く、深く、深くもぐりこんでいきます。とってもおもしろいのだけれど、児童書にしてはかなりシビアな気がする。(「救いのようなもの」がない・・・)

                              

 主人公の照美(テルミィ)は、いつも「世界の外に、たった一人取り残されているような気持ち」でいて、自分の居場所を探し求めています。あるとき、何かに導かれるようにバーンズさんのお屋敷を訪れ、裏庭(back yard)へ入り込みます。奇妙な体験をしながら自分探しをするという、幻想感たっぷりのとっても長く濃い一日(半日)のお話です。

     

         

「(略。)『前庭』なんて、ただの玄関に過ぎないんです。いわゆる『裏庭』こそが人生の本当の表舞台。『裏庭』こそが生活の営みの根源なんですからね、きちんと『庭(ガーデン)』と呼んでください」
          

     

 「庭」とか「公園」ってなんとなく惹かれますよね。その言葉が題名にあるとついついページを開きたくなる。「公園」なら少しはリラックスして読めるんだけれど、「庭」になるとちょっと緊張する。「人の家の庭」とか「荒れた庭」になるとさらに興味がそそられて、「裏庭」になると覗き込んで足を踏み入れたくなる。例えば、今年読んだ本でも、湯本さんの庭(『夏の庭』)とか西さんのキリン公園の場面(『さくら』)とかは細かいところまでとてもはっきりと思い出せます。

  

 と言いながらも、今回は『裏庭』よりも『エンジェル~』(もしくは『西の魔女~』)のほうが楽しめました。『裏庭』は梨木さんが自分の限界を超えても、なお力を振り絞って全力投球しているので、(しっかり覚悟して受け止めないと)そのエネルギーにやられてしまいます。ファンタジーとしてはかなり重い。純文学を読んでいる気分になる。だから、電車でパラパラ読むのには適してないんだと思います。『エンジェル~』は扱っているものは例のように大変なものですが、仕組みがトリッキーでとても楽しいです。推理小説みたい。

  

 なにはともあれ、梨木さんの本はどれもとても面白い(『沼地~』もいい感じの出だしでこれから楽しみ・・・)。というか、このジャンルの日本の作家さんたちはスゴイ人が多いですね。僕はここ何年かは、梨木さんよりも、むしろ-いしいしんじ-さんに、大きく傾いております・・・

  

 梨木香歩 『裏庭』(理論社:1996年)

気づくこと

 ついにホワイトバンドを左手首につけました。意外と身近な店で売られていました。すこし迷いましたが買いました。たしかに軽々しく流行りモノとして身につけるのはどうかと思うのですが、たとえ個人レベルでもその日常で些細(だけれど大事)なことに意識を向けるキッカケにはなるんじゃないかと思って。

   

       

 そんなわけで、今回は聖書からそれにちなんだ言葉を・・・

  

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

                   
 最初に断っておくと、僕はキリスト教を信仰しているわけではなく、また宗教に造詣が深い(??)わけでもなく、またまた聖書の愛読者でもありません。だから(もしそういうものがあるとすれば)正しい解釈がどんなものかはわかりません。

 

 と言い訳しておいて、キリストさんは「意識的に意識しなさい」(言葉としてオカシイ??)と仰っているんじゃないかと感じます。でも僕は意識的に意識するのがニガテなので、身の回りの細々としたものは、無意識的に意識するようにしています。(例えば手帳なんかの適当なところに殴り書きで「プレゼント3つ」とか書いています。するといい店を通りかかったときにふと、「あっ、そうだ!!」と思い出して、タイミングよく買い物ができたりします。失敗もたくさんあるけど)

         

 と、話はそれましたが、前にも書いたとおり僕は人並み以上のボランティア精神を持ち合わせていないので(例えば街の交差点で切迫感のないボランティア集団を見ると、ついつい「あなたがアルバイトした方が早いんじゃないの?」なんて思ったりもする・・・)、この[ THE WHITE BAND PROJECT ] はつい先日までまったく意識しておりませんでした。そして今日、最寄駅の本屋のレジ横にたまたまコレを見つけ、そしてたまたま300円出せる余裕があって、たまたま気に引っかかったので買うことにしました。

               

 会計のときに、17,8歳くらいのかわいらしいアルバイトの女の子に訊ねてみました。

 「これって、いつからおいてるの?」

 「うーん、ケッコウ前からありますよ。きっと3ヶ月以上はたつと思いますケド・・・」

 と言われました。

                 

 週に一度くらいはこの本屋に寄っているんだけれど・・・。やっぱりふだんから見ているようで、見えていないモノが多いものです。

                                    

 家に帰って早速左手首につけてみると、どうも左手に違和感がある。よくよく考えてみると、僕はもともとずっと幼い頃からリング系(輪っかモノ)がダメなんですよ。シルバーリングもミサンガも時計もネックレスもネクタイもダメなんです(輪っかものっていうのは「戒め」の要素がそよそよと潜んでいるように思えるのは僕だけでしょうか??)。しばらくするとイライラしてきて気持悪くなってすぐに外してしまう。ネクタイは仕方なく我慢することもありますが、ほかは全部ダメです。ほんとに病的に受けつけない。僕はずっと前から「これはひそかに何かの(僕の記憶以前の)トラウマだろう」と(都合よく)考えているんですが・・・。           

                   

 でも、今回はしばらく禁煙するくらいの心意気でつけてみます(ちなみに今は外している)。きっと外食していっぱい注文しそうになったときに、このバンドが目に留まって「多すぎるかな?」と思い直すんじゃないかと。こんなことを無意識的に意識している目印として。(やっぱり言葉がおかしい??)

 ※ほんとうに安易な気持ではありますが、安易だからこそできることもきっとあると思います。

『野火』 大岡昇平

 夏休みが終わって、街の子どもたちの声も小さくなりました。さて、彼/女たちはどんな読書感想文を書いたんだろう・・・と思いつつ、大岡昇平の『野火』を買いなおして読みました。

 僕は小学6年から中学2年まで、3年続けてこの小説で読書感想文を書きました。炎天下の部活動に勤しんでいたというのもありますが、それ以上にこの小説自体に何かしらの理由があったんだろうなぁと思います。

 当時は泣いたりしなかったのですが、読み返して思わず独りで泣いてしまいました。涙するのなんて久しぶりすぎてびっくりしました。

                

 主人公の私(=田村)はレイテ島に上陸するとまもなく、肺病が再発します。食料が枯渇した軍隊にあって、病人はもはや邪魔者以外の何者でもなく、また病院に行っても食料を持たないものは追い返されます。再び本隊に戻るものの、分隊長に「病院に入れてもらえないのなら・・・死ね」と言われます。再度病院に向かうと、途中の林で同じ境遇の兵隊たちに出会います。その日の夜の描写です。

         

 夜は暗かった。西空に懸った細い月は、紐で繋がれたように、太陽の後を追って沈んで行った。めいめい雨衣をかぶり、雑嚢を枕に横になった。強い光を放つ大きな蛍が、谷間を貫く小さい流れに沿って飛んで来て、或いは地上二米(メートル)の高さを、火箭(ひや)のように早く真直に飛び、或いは立木の葉簇(はむら)の輪郭をなぞって、高く低く目まぐるしく飛んだ。そして果ては一本の木にかたまって、その木をクリスマス・トリーのように輝かした。

      

 この小説の描写はどれを読んでも胸がすくような気分になります。おびただしい量の比喩がでてくるんですが、どれもほんとうに隙間がないくらいにぴったりしていて、ゆっくり読めば読むほど、繰り返し読めば読むほど、目の前が急に開けたようにすっとします。その中でも、この場面を読むと、なんというかぼんやりと切なくなります。

 死に直面した人の純粋で研ぎ澄まされた視線なのに、重くもなく痛々しくもなく、「こんなに苦しいんだよ」という押し付けがましさもなく、むしろ美しくて安らかな気分にさえなってくるんです。きっと彼が蛍を眺めている時も、「これは命の灯火だ」なんて感じずに、ただぼんやりと「きれいだなぁ」と感じたんだと思います。

    

          

 この小説はレイテ島での戦争体験記なのですが、「戦争」はあくまでテーマを浮かび上がらせるためのフィルターでしかありません。戦争はこんなに悲惨なんだ、こんなに酷いものなんだ、許せないものなんだ、といった(お節介な)善悪論では決してありません。

 生と死の境界線が徐々に曖昧になっていき、自分という一個の人間の存在が自然の中に溶け出していく描写は息を呑みます。心動かされて、心が洗われます。(そこでは終わらないけれど・・・)

  

 現実(自然)から遊離してぷかぷか浮かんでしまっている僕たちは、この本をしっかりと目を逸らさずに読んで地に足をつけないといけないなぁと改めて感じました。子どもたちには(強制的にでもいいから)この感想文を書かせて、授業で徹底的に根をつめて話し合うだけで、ほんとうに大切なことをたくさん知ることができると思います。きっとご飯の時には自然と「イタダキマス」というようになるのではないでしょうか?

 

 といいながらも、内容をすっかり忘れていた僕にはたいそうなことは云えませんが・・・。これから少し時間を割いて大岡昇平さんの本を系統的に読んでみようと思います。


 大岡昇平 『野火』 (新潮文庫:1954年)

「信じることは疑うことよりも難しい??」

        

 

           

 yoshiの『恋バナ 青』(の一部)を立ち読みしてまいりました。なにしろあれほど人気の作家ですから、なんらかの魅力が滲んでいるだろうと思いつつ。(作家なんて呼べるもんじゃなかったけど・・・)

    信じること


恋する相手を信じるのは難しいこと。

それは、好きなら好きなだけ難しい。

それは、疑うことよりも難しい。


だから、人は疑ってしまうのかもしれないーー。

きっと、疑う心は、自分の弱さの裏返し。

きっと、疑う心は、自分を信じていないということ。

           
                 
         

 「笑顔」(だったと思う)を読んで、挫折して、 後ろの方にある詩を読みました。その一部です。


 僕は一応の自分なりのブログ・ルールとして、これを見た人がここで取り上げた本の「読む気が失せないように」心がけております。(まああくまで「一応」ですが・・・)

 でも、この本はヒドすぎる。詩自体もほんとうに素人の一般の中・高校生が書いたみたいなものだけれど、それ以上に内容がかなり煽動的で、安易で、表層的で、感傷的で、現実から浮遊していて危険なんです。


 だってね、「信じること」と「疑うこと」は対等の心理じゃないでしょ。対等に天秤にかけられるものじゃないでしょ。まずあるきっかけで「疑心」が起こって、それと格闘して、一つひとつやっつけていって、やっとのことでそれを乗り越えた結果として「信じる気持」(あるいは「疑わない気持」)が生まれるんだと思います。「信じること」――「疑わないこと」、「信じること」――「疑い続けること」の比較だったらまだ少しは納得できるんだけれど、これはあまりにひどい。

             

 「疑う心」は「弱さの裏返し」でもないし、「自分を信じていない」からでもない。相手のことを信じたいからこそ、生まれてくる気持です。その不安やなんやらを正面から受け止めて、そいつと闘っていくための第一段階です。最初から疑わないっていうのは、相手への無関心か、傷つくことからの逃避ですよ。それこそ弱さじゃないか??

  

 yoshiさんは、こんなことを切々と散々述べて立てているんだけれど、その語り口が教祖的なんですよ。彼を形作る様々な個人的要素を全部喜捨して(ただyoshiというラベルだけ貼っている)、自分を抽象化してしまって、ある部分で自分を神格化してしまている。  

 売れないんなら別にいいんだけど、これが何万部も、何十万部も、下手をするとミリオンも売れてしまうと、かなり危険です。日本がカルト宗教の温床になってしまいますよ。こんな陳腐な言葉で(少なくとも若者たちが)衝き動かされるんだから、そりゃ「ザイン」やらなんやらが流行りますよ。

           

 本を読んでここまで気分が悪くなったのは初めてでした。総理よりずっとたちが悪い・・・。

   

 yoshi 『恋バナ 青』 (スターツ出版:2005年)



『さくら』 西 加奈子  ①

西 加奈子
さくら

 兄のハジメ(一)は生まれる前の記憶をもっています。妹のミキ(美貴)は初めて立って歩き始めた時のことを覚えています。でも僕(=薫)は何も覚えていない。 

         

              

兄だけでなく妹までもが天才的な記憶力を持つことに僕は驚き、同時に何も覚えていない自分が恥ずかしくなった。

         

           

 ミキは鋭敏な神経と精密な記憶力をもつんだけれど、モデルはきっと作者自身なんじゃないかな、と思います。

      

 僕は77年に大阪豊中市に生まれ、11歳までそこで育ちました。西さんも77年生まれで大阪で育ったそうです。僕はこの小説を読みながら幼少期の忘れていた記憶をたくさん思い出しました。彼女の描く80年代の大阪は、僕の暮らしていた80年代の大阪とぴたっと重なるんです。小説内の世界じゃなくて、かつて僕のいた世界として。

 とうぜん(おそらく)場所は違いますが、それでも僕は何度もこの本を置いて、幼少年の頃を回想しました。すっかり忘れて思い出すことのなかった公園や友達の名前、草や木々の匂い、夕暮れ時の風景を、細部にいたるまで鮮明に思い出しました。それだけ彼女の描写はとてもリアルで、僕の古い記憶を引き出してくれました。気持が良くなるくらいに。

                  

 本を読んでこんな体験をしたのは初めてです。びっくりしました。読んだあとほわっとした気持がしばらく続きました。

              

 といいつつも、そんな貴重な体験(僕の閉ざされた記憶の抽斗を開けること)は小学、中学、高校の描写では得ることができず、やはり小説世界のお話に収斂して行きました。

 少年期以降は本物っぽさと偽物っぽさがぐちゃぐちゃに混ざり合っています。リアルらしきもの(実体験あるいはそれに付随するもの)は、とてもヴィヴィッドに描写しています。思わず心揺さぶられるほどに・・・。でも虚構となるとどうも「作ったもの」っぽくなる。

                

 西さんは日常生活で体験する印象的な事柄を見出だし、それを記憶しておき、そしてそれを文字に直して表現するのは、それこそ「天才的」だと思います。例えば「大阪弁」の会話はとても生き生きとしていて声が聞こえてくるようだけれども、「共通語(東京弁)」になるととたんに硬くて平板な会話になってしまうし、「ミキ」や「さくら」の描写は気持が良いほどリアルだけれど、「薫」や「ハジメ」の描写になるととたんにステレオタイプになってしまう。幼少の生活は克明だけれど、思春期の学校生活はいまいちパッとしない。

          

 つまりノンフィクション的な部分はとてもヴィヴィッドだけれど、フィクション(の描写)はそんなにうまくない。(※最後の方のエピソードはとてもおもしろい)

         

     

 それでも、彼女は天才なんじゃないかなぁと思います。人の忘れていた現実の記憶を揺さぶるんだから・・・

         

 例えば、文法の間違い(「見れる」など)や、表記の揺れ(「いう」「ゆう」「言う」/「ふて寝」「ふてね」「フテネ」など)や、文体のぶれなんかはあちらこちらに見られます。文体も構成もきちっとしているわけじゃない。

 でも、文章は乱れているにもかかわらず、あまりあるくらいに魅力があるし、惹きつけられる。登場人物も描写はそれほどうまくないのに、なぜか強く印象に残る。後半にかけてのうねりながら盛り上げていくところなんかほんとにすばらしいし、お母さんの「猫の声」のエピソードなんかそのまんま「性教育」のテキストにできそうに思える。

    

 (まあひとつ残念なのが80年代~90年代のリアルな大阪の子供を、ネイティヴな(というか砕けた)大阪弁で描いてしまっているので、関西圏(大阪)以外の人には声の魅力(響き)がうまく伝わらないかもしれません)

            

 まれにこういう人がいるんですよね。そんなに音楽を聴くわけじゃないけど、とても個性的で魅力的な声で歌ったり、普段は全く絵を描かないのに似顔絵を描かせたらびっくりするくらいに特徴をつかんでいたり、喋りがうまいわけではないのにすっと人の心のなかに入り込んだりできる人が。

             

 僕は技巧的にしっかりして巧すぎる作家よりも、西加奈子さんのようになんだかよくわからないけど惹きつけられるような作家の方が好きです。僕は『さくら』ですっかり彼女にはまってしまいました。

                  

 ※印象に残る場面も言葉もありますので、また今度続きを書こうと(いまは)思っています。

    

 西 加奈子 『さくら』 (小学館:2005年)

 ※小学館の小説はずっとニガテだったんだけれど、これで印象が変わりました・・・

   

「元気がなくなったときには」

白石 一文
見えないドアと鶴の空
 繁村昂一は妻(=絹子)の出張中に、絹子の古くからの友人で不可思議な力をもつ種本由香里と不倫の関係になる。妻、絹子はそれを直感的に察知する。絹子は由香里の部屋から昂一を連れ出し、霊能力者の権威である最善寺キヨを訪問する。昂一は彼女たちの語る不思議な世界に頭が混乱し、妻のもとから逃げ出し小さなホテルに宿をとる。彼の「好きな作家の初期の短編集」を読むと、こんな言葉に行き当たる。

   

    

「元気が失くなったときはねェ、自分の子供のときのことを思い出してみるんですよ。これが元気を取り戻すこつですなァ」

    

     

 うーん。。。これが結構大切なんですよ。元気がなくなったとき、というか、自信を失いそうになったときは、人生で一番良かったとき、一番生き生きとしていたとき(のある一点)を、リラックスしてじっくり時間をかけて思い出すんです。その時のことを具体的に思い浮かべて(風景とか音とか匂いとかも)、頭の中でひとつひとつ自分の達成したこと、頑張ってきたこと、運のよかったことをゆっくり辿っていきながら、マイナスの思考をひとつひとつ潰していく。

     

 次第に「できないんじゃないか」から「あの時はできたじゃないか」という思考に変わっていく。するとあるとき、諦めに近い開き直りの感情が生まれてくる。こいつが生まれてくるともう完璧です!! この開き直り状態をキープしてさえいれば、あとは時間が勝手に解決してくれます。(ほんとに・・・)

   

 これは3年くらい前にぼくのもっとも尊敬する会社の先輩に教えてもらった悩み解消法です。

  

   

 白石一文 『見えないドアと鶴の空』 (光文社:1994年)  

『ナラタージュ』 島本理生  

             
                        
  夏休みの日曜日、夜更けを迎える頃、泉はバスターミナルのベンチに失踪中の葉山先生を見つけます。葉山は酒に酔い自失の状態です。月明かりに照らされたベンチで二人は話します。葉山は母親と(別れたはずの)妻との深い確執に悩み、妻に会うべきかどうか決断を下しかねているということを泉に打ち明けます

 「ごめん。こんな話をして」

 私は首を横に振った。

 「私になにかできることはありますか。なんでもします」

 彼は一瞬だけまぶしそうに目を細めてから

 「僕が一緒に死んでくれと言ったら」

 「一緒に死にます」

 即答すると、彼はなにも言わずに黙った。

    

   

 とても印象的な場面のひとつです。この小説には月(明かり)がたくさんでてくるんですが、このシーンが一番生きている。とても切ない・・・・。

  

     

村上 春樹
神の子どもたちはみな踊る

  →(9/30に書き直した) 「アイロンのある風景」(『神の子どもたちはみな踊る』村上春樹)

 

 三宅さんと順子は、海辺で焚き火の揺れる炎を見つめながら静かに語り合っています。若い順子は三宅さんに「私って空っぽなんだよ」と告白します。三宅さんは「ぐっすり寝て起きればだいたいはなおる」と云いますが、順子は「そんなに簡単なことじゃない」と否定します。「そうかもしれんな」と三宅さんは答えます。

 

「じゃあどうしたらいいのよ?」と順子は尋ねた。

「そやなあ・・・・・・、どや、今から俺と一緒に死ぬか?」 

「いいよ、死んでも」

「真剣にか?」

「真剣だよ」 

  

 この言葉で二人の心は深いところでかすかに触れ合います。繋がったというのかな? 人生を虚無に感じつつある、年代も生まれも環境も違う二人が、静かに触れ合います。

 

 二人が本当に死んだのかどうかは小説からはわかりませんが、僕は死ななかったんじゃないかと思います。その深い淵を二人で眺めて、その淵に二人が手を重ねて触れることで、きっと生きるためのかすかなエネルギーを得ることができたんじゃないか、と思います。というか信じています。真剣な覚悟が二人の間で同じ深さで生じたら、もう空っぽじゃなくなるんじゃないでしょうか?

         

          

 島本理生 『ナラタージュ』 (2004年:角川書店)

 村上春樹 「アイロンのある風景」 (『神の子どもたちはみな踊る』 2001年:新潮社)



 ※ 8/19に書いた「『ナラタージュ』(島本理生)」を9/30に修正しました。

  (参)→「いやでも目は覚める 」(7/18)

無関心から生まれる悪

          

 NHKのドキュメンタリーに触発されて『アウシュヴィッツ収容所』を読みました。著者は、アウシュヴィッツ収容所の所長を3年半務め、ユダヤ人をはじめ、反ナチスの多くの人々を死に到らしめたルドルフ・ヘスです。

 

 やっぱりアウシュヴィッツは地獄です。ガスやチクロンB(青酸剤)での大量殺害、銃殺、衰弱死など目を覆いたくなるような「死」が溢れています。ナチスの極限的な「悪」はいうまでもありませんが、それ以外にも看守(抑留者から選ばれる)の囚人いじめや虐待があり、抑留者の同朋殺しと人肉喰い、女性抑留者の売春と自己中心的な欲望、障害者・同性愛者・子供の無慈悲な殺害、ほんとに凄惨です。

 でも、そこに描かれているのは、惨殺や虐殺などといったむごたらしさ、人間の残虐性、サディスティックな欲望なんかではない気がします。(むしろそういった陰険さや邪悪さは下の階級のSS<ナチス親衛隊>や抑留者の間に見受けられます。)ナチスの幹部や上の階級のSSに見られるのは、完全な無関心と無感覚と想像力の欠如です。つまり現代(日本社会)においてもそこかしこに見られる、非常にありふれた一般的な感覚です。

   

 ヘスは看守を三態に分けて記しています。

 邪悪な看守:囚人を下等の人間としてみて、精神的、肉体的虐待を繰り返す。

 無関心な看守:囚人をモノとしてみて、囚人に対して冷淡で無関心。

 善良な看守:囚人に対して共感し、同情心をもって少しでも良い待遇を目指す。

この分類はそのままナチス党員にも当てはまります。そして多くの幹部が②番に入ります。

  

 SS全国指導者のヒムラー(この計画の最高責任者)が幹部にアウシュヴィッツの視察を命じます。

                    

 ヒムラーは、ユダヤ人虐殺を見させるために、党やSSの高級幹部たちを、たびたび、アウシュヴィッツへよこした。誰もが、それから強い印象をうけた。それまで、この虐殺の必要をおおいに力説していたある者たちが、「ユダヤ人問題の最終的解決」のこの光景を見学すると、すっかり黙りこんで口をきかなくなってしまったことだった。

 そんな時、いつも私は訊ねられた。私たち担当者は、こんな場面を、どうやって絶えず見つづけていられるのか。どうやって、われわれは、それに持ちこたえられるのか、と。私は、いつもこう答えた。総統の命令を貫徹しなければならぬ以上、鉄の不屈さで、あらゆる人間的感情を沈黙させねばならぬのだ、と。このお偉方の誰もが、自分にはとてもこの任務にはもちこたえられない、と白状したものだった。

    

  つまり機能的側面(枠組み=ハード面)に対する関心が強いあまりに、中身(ソフト面)へは無関心に陥ってしまっています。「ユダヤ人=反ドイツ」という枠組みには目が行く。でも、ガス室に入る一人一人に対しては想像力が働かない。働いたとしても、表層的で安易で感傷的な部分しか感じ取れない。「殺すのはちょっとなぁ」という程度。ちょうど僕たちが自分の愛犬に対する様々な想像力を、保健所で殺される野犬に対して働かせないのと同じように。ナチスはユダヤ人を「安楽死」させるんです。効率がよく、処理がしやすく、苦悶を感じさせずに殺せるから。でも、実際に今生きている一人の人間が(子どもが親から引き離されて)ガス室に入る直前を目にすると、その個別の苦しみ、嘆き、悲しみがひしひしと伝わってくる。目を背けたくなるほど、無条件に想像力がかきたてられる。

    
           

 邪悪に、残虐に人を殺すんだったらあんなにも多くの人を殺せないんです。「虐殺」なんて言葉を聴くとある種の残虐非道な精神の異常性のもちぬしを感じさせるけれど、人の歪む顔を楽しむような人間には何十万人も何百万人も殺せません。だってまとめて安楽死させても楽しくないし、残虐に殺してもそのうち飽きてしまう。無条件に大量の人を殺せるのは、ある意味においては一般的な性向のもちぬしで、囚人に対して無関心で想像力が欠如して無感覚に陥った状態の人です。

      

   

 今月は終戦60周年を迎えたこともあって、歴史問題を取り扱った番組が多かった。それを見ていて僕は少し不安になりました。一方的に中国・韓国を批判する人たちや、あの戦争を(ある部分で)正当化する人の話を聞いていると、どうしても国の政策という大きな枠組みだけにしか目が行っていないような気がしてなりません。そこに住む現代の人や過去に日本軍に被害を受けた人を十全に想像しているようには見えません。

    

 僕は、南京大虐殺はなかったと思いますが、一般人の陵辱と殺戮はあったと思います。また、731部隊の人体実験はあったし、中国人はその実験材料になりました。大東亜共栄圏や八紘一宇の精神をもっていた軍人もいると思いますが、そんなものを一切もたなかった軍人もたくさんいると思います。自衛のために戦争を始めようとした人もいれば、ただ侵略のためだけに始めた政治家もいると思います。現地の人を労わった軍人もいれば、虐げた人もいると思います。日本国、日本軍人というわかりやすい枠組みだけでみるととても大切な何かを見失ってしまうように思えます。

  中韓の歴史認識の歪みは是正しないといけません。でも、日本の歴史認識もあるいは現代の中韓認識にもかなりのバイアスがかかっています。

   

 僕はこの本を読んで改めて、アメリカのイラク侵攻はかなりひどい悪だと思うのですが、「別にそんなの日本に直接関係ないしどうでもいいや」っていうのは、ものすごく危険なことだと思いました。(実際にはそれに日本も加担したわけだし・・・)


ルドルフ・ヘス著 片岡啓治訳 『アウシュヴィッツ収容所』(講談社学芸文庫:1999年)






「皮膚に過ぎないのよ」


 10年ぶりに『ねじまき鳥クロニクル』を読み返しました。

 

 前に読んだ時にも、まあまあ楽しめて気に入ったんだけれど、なんというかそこまでピタッとくる感じではなくて、なかなか読み返す機会がなかったんです。盆前に本棚の整理をしているとこの本が出てきたので、盆を利用して一日2時間ずつ7日間かけてゆっくりと味わいながら読みました。前に読んだ時には「第2部で終わってればよかったのに・・・」と思ったものですが、改めて読んでみると「やっぱり第3部があるほうがいいなぁ」と思い直しました。

    

    

 僕(=岡田亨)が井戸の底で過去を回想しています。妻クミコとの初デートを思い出してます。上野動物園の水族館で、クミコはなにやら世界中のクラゲに興味津々です。僕はほんとうはクラゲが嫌いなんだけど、しぶしぶ付き合っています。

   

   

「でもね、さっきじっとクラゲを見ているうちに、私はふとこう思ったの。私たちがこうして目にしている光景というのは、世界のほんの一部にすぎないんだってね。私たちは習慣的にこれが世界だと思っているわけだけれど、本当はそうじゃないの。本当の世界はもっと暗くて、深いところにあるし、その大半がクラゲみたいなもので占められているのよ。私たちはそれを忘れてしまっているだけなのよ。そう思わない? 地球の表面の三分の二は海だし、私たちが肉眼で見ることができるのは海面というただの皮膚にすぎないのよ。その皮膚の下に本当にどんなものがあるのか、私たちはほとんど何も知らない」(太字は本文では傍点)

  

   
 まあ初デートで水族館に行って こんな話をされると、「この子は普段からこんなこと考えてるのかなぁ?」と思って、ぼくだとかなり困ってしまいますが、さすが村上ワールドの「僕」は違います。クラゲのお陰でクミコに少し近づけた、と考えます。で、その後も何度かデートを重ねて、クミコが大学を卒業するのにあわせて結婚します。ところが、ここから普通の僕が奇妙な異次元体験がはじまります。(ぼくならたぶんクミコさんとは結婚しないだろうなぁ・・・・)

      

      

  

 驚いたことに、むちゃくちゃおもしろいのですが、とても考えさせられました。今から思うとこの小説が出た一年後にオウム真理教の事件があったわけですから、小説家の洞察力ってやっぱり凄いですねぇ。

  10年前の高校生の僕はいったい何を見ていたんだろうと思うくらいに、僕の頭から魅力的な数々のエピソードが綺麗さっぱり抜け落ちていたので、まるで初めて読むときのように楽しめました。それとやっぱり改めてこの人はすごいなぁと思いました。 


村上春樹 『ねじまき鳥クロニクル1.2.3』(新潮社:1994年【3部だけ1995年】)


信じることと期待すること。

 さて、衆院選、衆議院選挙です。超変人小泉の一世一代の大勝負です!!  皆さん、選挙に行って、意思表示しましょう。

    

 

 大正・昭和期の憲法学者・美濃部達吉が「統治権は国家に属すんだ」って言いました。それは大正時代から昭和10年くらいまでの、日本政府公認の学説(天皇機関説)でした。でも、戦争が泥沼化し始めた頃、1935年前後に天皇機関説問題っていうのが取りざたされました。右翼たちが「天皇は機関ではなく、統治権は天皇に属するんだ」って言い始めるのです。その時期の法学者たちを非難した大内兵衛の文章です。長いですが、ぜひゆっくり読んでみてください。

 

美濃部博士の学説といえば、大正八年より昭和一〇年までの日本における、政府公認の学説である。という意味は、この十五年間に官吏となったほどの人物は、十中八九あの先生の憲法の本を読み、あの解釈にしたがって官吏となったのである。そしてまた、その上司はそれを承知して、そういう官吏を任用していたのである。これは行政官だけのことではない。司法官も弁護士も同様である。しかるに、いったん、それが貴族院の一派の人々、政治界の不良の一味、学界の暴力団によって問題とされたとき、すべての法学界、とくにそれに直接した人々がどういう態度をとったであろう。上は、貴族院議員、衆議院議員、検事、予備判事、検事長、検事総長等々より、下は警視総監、警視、巡査にいたるまで、彼らのうち一人も、みずから立って美濃部博士の学説が正当な学説であるというものがなかった。いいかえれば、自分の学説もまたそれであり、自分は自分の地位をかけても自分の学説を守るというものがなかった。もう一度いいかえれば、美濃部先生の学説はその信奉者たる議員、官吏のうちにさえ、その真実の基礎をもたぬものであった。だからこそ、彼らは、上から要求されれば自己の学説をすてて反対のことをやったのである。そしてそれについて自己の責任を感じなかったのである。何ともバカらしい道徳ではないか。何ともタワイのない学問ではないか。そんなことから、私はかたく信じている。日本の法学は人物の養成においてこの程度のことしかなしえなかったのであると。同時に、そういう学問ならば、いっそないほうがよいのではないか。そのほうが害が少ない。


 昭和の動乱期の役人たちはこんな無責任な人たちだったんです。お国のお膝元で働く人々は「上から要求されれば自己の学説をすててはんたいのことをや」り、「それについて自己の責任を感じなかった」んです。この人たちに比べれば、少なくとも自己責任で解散を表明した小泉さんを認めてもいいような気がします。

 今回のごたごたも、政治に無関心な人にとっては、「なに内輪もめしてんの?」っていう程度かもしれないですが、次の選挙はしっかりと自分の頭で考えて、自分の意思で投票しないといけないと思います。(だってこのままじゃ日本っていう国自体が潰れちゃうかもしれないから・・・)

   

 僕は、勤務先で大学生(8人<慶応6人、青学1人、明治学院1人>)に「選挙はどうするの?」って聞きました。返ってきた答えは、「興味ないし、いかない」(3人)、「民主党」(1人)、「小泉自民党」(1人)、「顔と雰囲気で決める」(1人)という結果でした。

     

 僕は議会制民主主義っていうもの自体が信用できないのですが(だって僕らの世代以降の若い国民が選挙に無関心だから)、選挙はいちおう毎回投票しています。

    

 まあ、今の官僚主義は悪の巣窟になっています。それは間違いない。明治維新以降にゆっくりと固められてきて、ここにきてそのどろどろの黒い血が溶けて流出し始めた。

      

 今回の選挙は明治維新以降脈々と続いてきた官僚主義を終わらせるのかどうか、を国民が判断する最大最高の機会です。

   

 僕は、自由主義経済、高度資本主義経済は本音でいえば間違っていると思います。つまり郵政民営化には、本心では反対です。でも、それよりも良い案が今のところないわけですから、渋々認めざるを得ないといった感じです。先送りばかりする政治にはうんざりするので、今は小泉さんを応援しようかなって思っています。

       

 今はまだアメリカ追従の小泉さんですが、いずれ脱アメリカを狙っているんじゃないかなぁと心のどこかで期待しています。僕らもいいかげん無責任な国民を卒業しましょう。

     

 大内兵衛 『法律学について』 (「大内兵衛著作集」、第12巻 岩波書店:1976年)