「沖で待つ」 絲山 秋子
(本筋ではない、小さなエピソードです)
ある現場でトラブルが続き、そのまま収拾つかなくなるんじゃないか、と私は不安になっています。そんなときに上司の副島さんが声をかけます。
「及川、納まらない現場っていうのは絶対にないんだよ」
「已まない雨はない」とか「明けない夜はない」とかって、慰めの言葉でよく使われるけれども、あまりピンと来ないことないですか? 結局、僕らには闇が明ける時間を早めることはできないから・・・・(まあ雨乞いはできるんだけれど)
僕が大学生の頃って就職難の真っ只中で、活動を控えたゼミのみんなが不安に襲われていたんです。その時に先生がこんなことをおっしゃいました。
「僕がこの20年間に受け持った学生で、就職しなかった子はいるけれども、就職できなかった子はいまだに一人もいないんだよ。根拠はないんだけれども、うちのゼミにいるかぎりなぜか満足のいく就職ができるみたいだ」と。
こういう言葉って響くんですよね、カーンと。閉塞感を打ち破るのってこういう経験に基づく無責任な言葉なんですよね。というわけで、数々の壁を乗り越えてきた(であろう)副島さんの言葉は、(具体的な解決策は全く示していないんだけれども、)きっと及川さんの心にカーンと響いたんだろうと思います。
僕は初めて絲山さんの小説を読んだんだけれども、とても楽しめました。ところどころ言葉が文章に馴染まずに浮いてしまっていた部分もあるんだけど、それでもしっかり読ませてくれる。特に冒頭の部分なんて、もう先を読まずにはいられないような仕掛けになっています。(そのせいでちょっと立ち読みのつもりが、ついつい買ってしまったぁ)
絲山秋子「沖で待つ」(「文学界」九月号:文芸春秋)
映画 『亡国のイージス』
久しぶりに映画館に行ってきました。『亡国のイージス』、混んでいて驚きました。とはいえ、途中で退席する人がちらほらいて、どうも集中して観ることができなかった。
小説を映画化したものを観る時は、二つの作品を切り離して観ることを心がけているんだけれど、この映画もやっぱりできるかぎり原作に忠実につくろうとするから、いろんなところに無理がでてしまっていて、まあ案の定収まりきらずに舌足らずの圧縮(ダイジェスト)映画になっております。(いっそのこと別物として作った方がいいのに・・・)
僕は『ローレライ』を観た時に、その安物のハリウッド的な作り方(冒頭部分でいきなり安易な演出で観客を引きつけておくようなの)に辟易したので、今回もちょっと警戒していたんだけど『亡国のイージス』は静かな立ち上がりだったのでよかったです。細部も全体的にも『ローレライ』よりは絶対よくできています。
まあ賛否両論というよりも「否」の方がきっと多くなると思うけれど、僕は結構よくできていたんじゃないかなぁと思います。とくにイージス艦のロングショットは壮大でよかった。編集もかなりうまくやっていたんじゃないかな、きっと。見所もありますし、予習しておけば(ここが問題??)ちゃんと楽しめますよ。俳優豪華ですし。細かいところもしっかり作りこんでいるし。セリフはちょっと浮いている感じはしたけれど、最後にはしっかりとメッセージを伝えていたし。
まあ、でも原作を読んでいない人はきっと映画に入り込むことはできないだろうなぁ・・・・・・やっぱり福井さんの小説は映画化しないほうがいいんだよね。するんなら『24』くらいの金と時間をかけないと・・・
★★★★☆☆☆☆☆☆ 4点 (一つの作品としては失格ですよ・・・予習が必要だから)
泳ぐのに、安全でも適切でもありません
- 江國 香織
- 泳ぐのに、安全でも適切でもありません
- 今回は江國香織さんなのですが、この人はほんといい題名をつけますよねぇ。いつも感心します。小説の文章そのものがとくに巧みなわけではないと(僕は)思うんです。ただアフォリズムのようなものをさっと拾い上げるのがとてもうまいんですよね。 まず題名を眺めて、その余韻を追いかけていくと、その先に小説世界があるんです。
「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」
(It’s not safe or suitable to swim)
日本だと「遊泳禁止 危険!! 泳ぐな」ですね。それがアメリカだと「泳いでもいいけど、怪我してもしらないよ」という意味になる。まあどっちが良い標語なのかは良くわからないんですが・・・
「suitable(=適切)」という言葉の概念は、「入れ物(A)の中に内容物(B)がほとんど隙間がなく入っている状態」で、いいかえると「ぴったり」ということです。一方の「安全」は、「危険のない状態・怪我をしたり損害や危害をうけたりしない状態」です。
つまり、題名を訳すと、
「この場所は(あなたが誰かと)泳ぐという目的にはぴったりの場所ではないですし、溺れたり、怪我をしたり(あるいは死んだり)するおそれがありますよ。それでも泳ぎたいっていうんなら私は止めません」 という意味だと思います。
この本に出てくる主人公たちはみんな、遊泳禁止区域に入って(自己責任で)泳いでいる人たちです。その場所は自分の求めているもの(B)にぴったりの場所(A)でもなく安全でもない。なんとなく居心地の悪さがある。だけど「通常、得がたい何か」がそこにはあって、依存症的に抜け出せなくなる。
表題作の最期のあたりにこんな象徴的な場面があります。食後に私(=葉月)が煙草をくわえると彼女の母親がこう言います。
「また吸うの? 毒よ」
私はかまわず煙草に火をつけます。
もしかすると彼女は(誰かに)はっきりと、「遊泳禁止」と言ってもらいたかったのではないかなぁ、と僕は思います。たとえば僕は、はやくこの国が煙草の売買を「禁止」してくれたらなぁと思っています。僕にとって煙草は必要だけど抜け出したい場所だから・・・。
あまりに自由すぎる環境に暮らす人々は、きっとこの小説の彼女たちみたいに、生きている実感みたいなものを喪失してしまう場合もあるんじゃないかなぁ・・・と。
★★★★★★☆☆☆☆ 6点
江國香織 『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』(集英社:2002年)
※今回は書評・解説ぽくなっちゃいました。
"Who is Tom?" (『グレート・ギャツビー』)
言わずと知れた20世紀の代表的な名作です。ギャッツビーという名前は勝手に一人歩きしてしまっていますが、実は結構愛すべき男です。本当に一途な男です。
若いギャツビーは貧乏のためにデイズィと結婚できなかった。その後、彼は法律ギリギリのことをしながら成金になります。そしてデイズィの家の近くの大豪邸を購入します。しかしデイズィはすでに名家のトムと結婚しています。諦めきれないギャツビーはとにかくデイズィに会って自分の家を見せたい。そこでデイズィの親戚であるニックにデイズィを呼び出してもらいます。
"Don't bring Tom." I warned her.(「トムは連れてこないでね」と僕(=ニック)は釘をさした。)
"What?"(「なに?」)
"Don't bring Tom."(「トムを連れて来ないでよ」)
"Who is 'Tom'?" she asked innocently. (トムって誰だっけ?」と彼女はあどけなくそう言った。)
親戚から電話がかかってきて、家に招待されて、いきなり「ご主人を連れてこないで」と言われる。それに対する応えが素晴らしい。彼女はその理由がわからないものだから一応「なに?」って尋ねる。でも相手は同じ言葉を繰り返すだけ。だからそれ以上深く追及せずに返答する。「だれそれ?」しかも無邪気に応えるわけだから・・・ なんとも厄介なご婦人です。
さらにその約束した日(雨)デイズィはやってきます。
さわやかに響きわたる彼女の声は、雨の中を流れて聞く者の心を湧き立たす力を持ったいる。瞬間ぼくは、耳だけでその抑揚を追わぬわけにはいかなかった。言葉が伝わってきたのはそのあとであった。売れた髪の毛が一筋、青い絵具をさっとなすったように、頬にはりついている。車から助け降ろそうととった手は、きらめく雨の滴に濡れていた。 (野崎孝訳:新潮社)
"Are you in love with me," she said low in my ear. "Or why did I have to come alone?" (「私に恋してるのね?」と彼女は僕の耳にささやいた「じゃなかったら、なんでひとりでこなきゃいけないのよ」)
もう最高ですよね。こんなふうに言われたら思わず好きになってしまいそうです。数日間は理由を聞かずに平気でいて、会った瞬間にそっと理由を聞くのっておしゃれだと思いませんか?
僕はこの"THE GREAT GATSBY"を10回近く読んでいます。たぶん一番繰り返し読んでいる本だと思います。僕が村上春樹を好きになった最大の理由はこの小説かもしれません。僕は中学生の頃にこの本がとても好きだったのですが、高校時代に人に薦められて読んだ『ノルウェイの森』の中でこの本を絶賛していたので 、その後村上春樹を愛読するようになりました。
★★★★★★★★★☆ 9点
スコット・フィッツジェラルド 『グレート・ギャツビー』 (新潮社:1974年)
『音楽』 (三島由紀夫)
精神科医と不感症の患者との触れ合いを通して、神秘的世界を垣間見るお話です。「トラウマ、精神科医、催眠」などは現代エンターテイメント小説の主要道具の一つとなっていますが、さすが世界のミシマ、安易に流されたりしませんよ。(少々無理はありますが)
ある過去の出来事のせいで冷感症(不感症)になってしまった麗子に、心底嫌っている憎むべき許婚者が肝臓癌に侵され倒れたという連絡が入ります。余命は僅か。麗子は彼を許します。そして不眠不休の看病を続け、その三日目、彼女は聖女になり彼の最期を看取ります。その場面(麗子から汐見医師への手紙)。
『麗ちゃん、麗ちゃん』
と呼びました。何?と私が顔をさし出すと、必ず彼の目には、やすらぎと、一種敬虔な色が浮かぶのでした。
『苦しい・・・・・・手を握っててくれ』
と彼は辛うじて言いました。私はすぐ、その衰えはてた手をしっかり握ってやりました。手は私の掌のなかでかすかに慄えていました。
そのときです、先生、どうしたことでしょう。突然、私は『音楽』をきいたのです。私の体の中に、あれほど憧れていた音楽を。音楽はすぐには絶えず、泉のように溢れて、私の乾き果てた内面を潤しました。(略)
このシーンはほんのくすぐりです。本題はまだまだ深く神話的な部分に潜んでいる。
もう一つ、素晴らしい場面を。
麗子と汐見(=私)が診療所(=ここ)で対面しています。
彼女にとってここがいつしか本当の心の故郷になり、唯一の平和郷になったように、さんざん悩まされた被害者の筈の私にとってさえ、こうして二人きりで鍵のかかった密室にいて、あらゆる外界から遮断され、夜の街の賑わい、愛の言葉や喧嘩口論、ネオン・サイン、狂おしいダンスのサーフィン、路ばたの一寸した目じらせ、街娼、金を持たない若者たちの貧しいポケット、夜かけるサン・グラス、ロード・ショウ映画の最終回、早く閉める宝石店のからっぽのビロードの台座を並べた飾窓、夜道の自動車のしめやかな軋り、地下鉄工事のひびき、・・・・・・その他あらゆる人間世界の騒がしさから隔てられて、心と心を附合わせている状況こそ、稀な理想郷の実現であったかもしれない。
この小説は(誰が読んでも)本当に面白いです。(しかもとても読みやすい。)ノンストップで最後の一文まで読みきってしまうくらいに。読み終えると、きっと三島の他の作品を読みたくなります。で、『仮面の告白』や『金閣寺』なんかを手始めに読んでみる。するとあまりに厳密な文体と緻密な構成に疲れてしまう。そして頓挫してしまう。(予想・・・)
この作品はミシマ文学特有の厳格さもほとんど感じないくらい和らいでいます。もし現代作家(東野圭吾とか奥田英朗あたり)がちょこちょこっと自分なりに書き直したら、即、大ベストセラーになると思います。
という僕はミシマ文学にはどうしてもうまく入り込めません。けっこうたくさん読んだのですが、なんというか置いてけぼりをくらいます。マラソンで足の速い友人がどんどん先に行ってしまって、その後姿が徐々に遠くなってしまう、そんな気がしてくるんです。この小説はそんなミシマ文学の中で僕が最後まで後姿を捉えられた数少ない貴重な作品です。
この小説は確かに、エンターテイメントですが、そんじょそこらのエンターテイメントとはわけが違います。あの手この手でぐいぐい引き込まれる。文章も手抜きなしで流麗です。
★★★★★★☆☆☆☆ 6点
三島由紀夫 『音楽』 (新潮社:1970年)
※『音楽』の次は『潮騒』がいいです。
『パークライフ』 (吉田修一)
「パークライフ」
日比谷交差点の地下には、三つの路線が走っている。この辺り一帯を、たとえば有楽町マリオンビルを誕生日ケーキの上飾りに譬え、上空から鋭いナイフで真っ二つに切ったとすると、スポンジ部分には地下鉄の駅や通路がまるで蜂の巣のように張り巡らされているに違いない。地上のデコレーションが派手でも、中身がすかすかのケーキなど、あまりありがたいものではない。
地下鉄(交通機関)っていうのは、もともと人と人が会って触れ合うために生まれたんですよね。それがいつの間にか人がただ空虚に行き来するだけの通路になってしまった。AとBを繋ぐワープゾーンみたいに。するとそこにはほとんど意味がなくなってしまう。「A→B」の「→」になってしまうんです。
でも実際にはその「→」にはたくさんの(個別の)人がいて、ほんとうは中身はつまっているんです。だからふとしたときに偶然にその「→」が意味をもつことがある。(例えば、三四郎とか電車男みたいに。)でもそれにはその偶発的な出逢いを見過ごさずにしっかりと捕らえなければならないんです。つまり、意識を変えなければ中身は空虚のままなんですよね。
この小説では、中身がすかすかで無機質な(はずの)地下鉄が(公園が)、心の持ちようによって触れ合いの場としての意味をもつことがあるんだって優しく描いています。その微妙な心の触れ合いが僕がこの小説の一番好きなところです。
この作品と対をなすものとして、村上春樹の『アフターダーク』があって、こっちの方は昼の喧騒から離れて抜け殻になった都会の夜が描かれています。僕はどちらの作品もとても気に入っています。
この引用文は『パークライフ』の冒頭で昼の大都会の空しさが描かれているんですが、『アフターダーク』の冒頭は見事なくらいに夜の文章になっています。この二つを並べて読むと、昼の人間の空虚さと夜の人間の空虚さとの質量の差を感じると思います。
★★★★★☆☆☆☆☆ 5点
吉田修一 『パークライフ』 (文芸春秋社:2002年)
[サッカー] 日本代表発表について
大黒はレギュラー獲りへ。田中達也は代表権獲得へ。
田中達也と大黒ってちょっと似てる気がするので、どっちが結果を出すか結構楽しみ。
今野にも大きな期待を・・・ いっそのことレギュラー取ってしまえ。
東アジア選手権は優勝しましょう!!
頑張れ!! 初選出の選手たち・・・
お知らせ ~これからの「coffee shop」運営について~
紹介したい本は平積み本のごとくあるものの、このブログ本来の目的を離れつつある昨今、ちょっと営業方法を変えちゃおうと思いました。(そんなにたいそうなものじゃないけど・・・)
更新ペースを落とします。言葉の紹介は週に一回程度にしようかなぁと。
いろんなブログを覗いておりますと、なんとももったいないことに、せっかくの皆さんのお言葉が「さらさらとさらさらと流れてゐるのでありました」。すごい量のTBを掲げているサイトでもコメントとなると、「TBありがとうございました」の連続で、果たしてこのTB族の皆さんは「こんなにたくさんの人の言葉を読んでいるのだろうか?」という根本的な疑問を感じてしまいました。
このままいくと、おそらく僕も数字の魔力にとりつかれてしまいます。「多くの人に見てもらいたい」、「多くの人のコメントを頂きたい」という思いは同じです。でも、僕は「言葉を読んで頂いて、意見を頂戴したい」のであって、「(このサイトの)存在を知って頂きたい」のではありません。(ちょっと強がり・・・)
というわけで、(どんなことでもいいんで)コメントください。頂戴いたしましたお言葉は何度も反芻して、真心込めて返事させて頂きます(本文よりも長い文章で・・・)。っていうかこんな書き方したらますますコメントが来なくなるなぁ。まあいっか。
まあ客離れ覚悟の値上げ良質化宣言です!! はぁ~。
ちなみ↑は中原中也の「一つのメルヘン」の一節です。
一つのメルヘン
秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があつて、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました。
陽といつても、まるで硅石か何かのやうで、
非常な個体の粉末のやうで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもゐるのでした。
さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでゐてくつきりとした
影を落としてゐるのでした。
やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……
中原中也 『在りし日の歌』
この詩いいでしょ!!!
『さよなら アメリカ』 (樋口直哉)
- 樋口 直哉
- さよならアメリカ
ジュンク堂に行ってぶらぶら立ち読みをしていたら、たまたまこの本を見つけました。僕はもともと「○○賞」 などに弱い方なので、「群像新人文学賞」(ちなみにどんな賞なのかはしらない)なんて見るとついつい読みたくなります。買って読んでみるまではいいのですが、実際に読んでみると失望することが多々あって、だからまた今日も悩んだんですが、結局買っちゃいました。
ぼくは鳩のように目立たない存在だった。
彼女の声はミルクティーのようだった。
こんな見事な文章が続々と出てきます。「目立たない存在」=「鳩」、「声」=「ミルクティー」ってかなり巧くないですか? 街中に溢れる鳩、どこにでもいる鳩、いつでも視界に入ってくる鳩、でも意識には上らない。ミルクティーみたいな声って、なんかわかりますよねぇ ?? 僕はレモンティーのような声の女の子の方が好きです。さわやかで透き通った甘い声。
なにやら24歳の出張調理人が書いたとのこと。話題性狙いかな??と思いつつ読んでみるとこれがなかなか面白い。感性豊かで、表現も巧みです。片山恭一や市川拓司なんかよりずっとしっくりくる文章です。
まあ小説のベースはどこかで読んだことのあるようなものなんですが、上塗りの色づけが巧いのでそんなに気になりません。たぶん次回作あたりで芥川賞を獲ると思います。(ただ視点がかなり歪んでいるので受けつけない人もいるかもしれません。)少なくとも候補にはなると思います。もし書き続けるなら、きっと立派な大作を書くんじゃないでしょうか?
先物買いの皆さん是非どうぞ。
★★★★★☆☆☆☆☆ 5点
樋口直哉 『さよなら アメリカ』 (講談社:2005年)
※今、検索してみたら、どうやらすでに今期の芥川賞候補に上がっていたみたいです。残念ながら落選したようですが・・・。せっかく書いたので残しておきます。あしからず・・・・
「幸福な朝食」 <『幸福な食卓』 瀬尾まいこ>
瀬尾 まいこ
幸福な食卓 「幸福な朝食」より
お母さんが家を出ていった。成績優秀のお兄ちゃんは進学せずに農業を始めた。お父さんがお父さんをやめた。私(だけ)は現実の枠の中で一生懸命生きている。そんななんとも不思議な家族の話です。
佐和子(=私)は始業式の帰りにお母さんの家に寄ります。お母さんが昼食を用意してくれます。蕎麦と白ねぎの炒めモノに醤油と生クリームを和えた奇妙な料理を出されます。私は不審がって食べます。
「あれ? おいしいかも」
「うん。おいしいらしいね」
(略)
「醤油と生クリームって合うんだねえ」
(略)
「白ねぎがポイントなのよ」
「意外な組み合わせでできる美味さって癖になる」
この「意外な組み合わせで・・・・」という声がこの小説のモチーフ(コロス)になっているんだけれど、この小説全体に漂っているなんとも不思議で奇妙なバランスが、なんとも心地がいいです。
こんな風な、不思議な組み合わせでできる(物語の)面白さって癖になる。
★★★★★☆☆☆☆☆ 5点(5.5点)
瀬尾まいこ 『幸福な食卓』(講談社:2004年)